武田軍の軍師山本勘助は、第四次川中島合戦で自ら考案した「きつつき戦法」が上杉軍に見破られ、自軍を窮地に立たせたことに責任を感じて、本陣を守るために奮戦しましたが力尽き討死にしました。かつてはこの南方の高畑にあった墓を、元文4(1739)年に松代藩家老鎌原重栄(かんばらしげひで)らが武田信玄が改築し両軍の戦死者の霊を祀った信州柴阿弥陀堂の境内に遺骨とともに移し、墓碑を建てました。信州柴阿弥陀堂と山本勘助墓所を代々守護してきた吉池家のご当主によれば、墓碑に刻まれた漢文は、勘助の来歴や川中島合戦の解説、墓地移転の経緯などを記したものだそうです。