信玄・謙信一騎討ち像
八幡原史跡公園に隣接する八幡社にある武田信玄と上杉謙信の一騎討ちのブロンズ像は川中島古戦場のシンボル的存在。5回におよぶ両雄の戦いのうち最も激しかったといわれる永禄4年の第4回川中島合戦で、武田軍の本陣に攻め入った謙信の太刀を信玄が軍配で受け止めたという逸話があり、戦国ロマンとして語り伝えられています。〈生涯のライバル - 武田信玄・上杉謙信の横顔〉「武田信玄」●略歴/1521年、武田信虎の長男として生まれる。1541年、乱暴な父・信虎を追放して信濃の国・諏訪地方に勢力を伸ばし、さらに北信濃に進出して上杉謙信と対決を繰り返した。また駿河の国も手に入れて京を目指したが、1573年、徳川家康・織田信長の軍と戦いの最中、病気のため53歳でなくなった。●生まれ/大永元(1521)年11月3日 甲斐(山梨県)石水寺城 幼名 太郎●性格/外向的。合理的な判断力を持ち、合議を重視する組織のリーダータイプ。●結婚/内大臣三条公頼の娘を正室に、湖衣姫、里美、恵理と3人の側室がいた。●信仰/神仏を深く信仰して保護したが、人間と同じように利益や金で動かせるものだと考えていた。●戦い方/なるべく損害を出さないように、相手方の家来なども味方につけ、敵を内部から崩れさせた。城を攻めるときもなるべく降参させるようにした。●民政/国を富ませて強い軍隊を作るため内政に力を入れた。信玄堤を築いたり、信玄家法、甲州ますの制定などを行った。●合戦の戦法/「きつつきの戦法」 きつつきの戦法とは、キツツキが虫のいる木の側面をくちばしでコツコツとたたき、虫が驚いて反対側へ逃げ出したところを捕獲するという習性から称された戦法で、武田軍の参謀・山本勘助の策です。永禄4(1561)年の第4回川中島合戦の時、9月9日夜、武田軍が二隊に分かれ、一隊が上杉軍の本陣である妻女山に奇襲攻撃をかけ、上杉軍が山を下りるのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つという作戦でしたが、上杉軍に見破られ失敗に終わりました。「上杉謙信」●略歴/1530年、長尾為景の4男として生まれる。1548年、父の後を継いだ兄・晴景に代わり守護代となり越後の国を統一。1559年には、関東管領の地位を上杉憲政より譲り受けて上杉姓を名乗る。京を目指して能登・越中・加賀を平定したが、1578年、北条氏との戦いの出陣前に倒れ、49歳の生涯を閉じた。●生まれ/享禄3(1530)年1月21日 越後(新潟県)春日山城 幼名 虎千代●性格/保守的。直感を重視し、強い個性で国を率いる独裁者タイプ。●結婚/理由は定かでないが、一生独身のまま過ごした。●信仰/神や仏の力を深く信じていた。特に毘沙門天と善光寺如来をもっとも信仰した。●戦い方/出陣前には必ず春日山城中の毘沙門天に勝利を祈った。戦いでは常に直感的な判断で軍を動かし、勢いに任せて進撃した。●民政/直轄地が少なく、大部分は部下の領地で、それぞれが好きなやり方で治めていた。謙信はそれを力で押さえていた。●合戦の戦法/「車がかりの戦法」 車がかりの戦法とは、車輪が回るように隊を絶えず繰り出し、常に新しい隊が敵の前面に出て戦い、ついには本陣の旗本隊が、そのままの勢いで敵の本陣に撃ちかかるという戦法です。相手側から見ると、退却するようにも見え、その油断に乗じて攻め入るという実に巧妙な手段です。 敵前ではどうしても足がすくんでしまう兵士たちの心理を良く理解した、上杉謙信の実戦家としての見事な采配ぶりを示しています。
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