史跡ガイド

史跡紹介

竹山城跡

カテゴリー:武田軍関連 城・館 | ◇アクセス

 長野市松城町松代。海津城跡の南にある通称・象山(ぞうざん・標高475.8m)山頂に築かれた城。清野氏一族の西条(にしじょう)氏の居城であったといわれ、鞍骨(くらぼね)城の支城としての役割を果たしていた。


竹山城跡(象山山頂)登山道


竹山城跡(象山山頂)

 村上支族・清野氏の分派であった西条治部少輔[じぶしょうゆう]は、天文22年(1553)葛尾城を追われた村上義清に従って越後に逃れたが、翌年には武田信玄に仕え、真田幸隆が攻略した尼厳(あまかざり)城を普請したという。

 竹山城跡は「象山コミュニティの森」として公園化され、麓の象山神社から遊歩道が続いている。主郭部までは20分程度。山頂展望台からは、千曲川が流れる善光寺平、妻女山から海津城跡、八幡原史跡公園のほか、飯綱山・戸隠連峰など、甲越両軍が死闘を繰り広げた舞台を一望できる。

 城跡の真下には、第2次世界大戦の末期に本土決戦最後の拠点として、大本営、政府各省等を松代に移すという軍部の極秘計画のもとに掘られた地下壕の一部「象山地下壕」がある。


石垣跡


竹山城跡(象山山頂)より
善光寺方面を望む


竹山城跡(象山山頂)より
妻女山方面を望む

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 竹山城は清野氏の鞍骨城の支城として、城山(竹山とも象山ともいう)山頂に築城された山城で、竹山砦、城山城ともいう。この城には「旭射す夕日輝くその下に黄金千両朱千杯」という長者伝説がある(『松代町誌』)。この山は、真田氏が松代移封の後、竹を植えたところから竹山といわれたという。

 天文22年(1553)竹山城主であった西条美作守祐尚(にしじょうみまさかのかみ すけなお)、尚胤(なおたね)父子は村上義清、清野清寿軒勝照(きよのせいじゅけん かつてる)に従って越後に走り、清寿軒の弟信清[のぶきよ]は武田氏に降った。祐尚父子は永禄7年(1564)まで義清旗下の信州先方衆として川中島の戦いに出陣した。清野信清は西条氏の名跡を継ぎ、西条治部少輔(にしじょう・じぶしょうゆう)と改め、西条氏の故地を領して竹山城に拠った。天正7年(1579)武田氏と上杉氏との和睦が成立すると、祐尚、尚胤父子は帰郷し、尚胤は信清の養子となり、治部少輔と改めた。

 天正10年(1582)上杉景勝が川中島四郡(埴科・更級・高井・水内)を領有すると、尚胤は信濃七士の一人として景勝の家臣となり、西条の地を安堵された。上杉家の『文禄三年定納員数目録』※にある貝津在番西条喝食丸[かつじきまる](綱春[つなはる])は、尚胤の養子である。

※文禄3年(1594)に上杉家領国内における2,000人あまりの家臣たちの知行定納高と軍役人数が記された目録。

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