史跡ガイド

史跡紹介

市村の渡し

カテゴリー:上杉軍関連 | ◇アクセス

 丹波島の渡しから1kmほど下流にあり、川中島の戦いの頃は犀川の主な渡し場であった。

永禄4年(1561)、犀川を越え善光寺横山城へ撤退しようとした上杉軍の兵だったが、武田軍に阻まれ、この市村の渡しあたりでも多数の兵が討ち死にしたという。犀川を渡った信州大学工学部北西側には、戦死した将兵たちの霊を慰める姫塚が建つ。


下流方向を望む

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 戦国期頃まで、市村の渡しは北国往還をする犀川の主要な渡しで、対岸の地名から「綱島の渡し」とも呼ばれていた。江戸時代になると上流の「丹波島の渡し」の総称として呼ばれてもいた。船渡し場は、犀川の流路の変動によって、市村と丹波島の間で移動した。

 慶長8年(1603)北国脇往還改修によって、上流の小市の渡し(長野市安茂里小市)と、下流の綱島の渡しが併用されていたが、市村の渡しが主渡船場となった。中世の北国往還は、この市村の渡しを渡って対岸の綱島、真島本道を経て、千曲川の関崎渡を渡って、保科道から上州大笹、鎌倉へと往来した。このように市村の渡しは、交通の要衝であった。

 信州大学工学部の北西際に姫塚がある。この辺りで永禄4年(1561)9月10日、犀川を渡って撤退しようとした上杉兵が武田軍や市村水主に阻まれ、多数討死した。この様子について『甲越信戦録』に、

「高坂弾正の配下、駒沢七郎、新三郎の兄弟は、犀川の向こう岸にかけ上がり、槍を突きかけ奮戦していたが、直江の家臣、石部右近と、須賀但馬の組下、北左京が犀川を渡って逃げてくるのを見て、よき敵と互いに目配せをして、川に飛び込み戦った。槍を交えること数10度、終に2人を討ち取ったが、兄の七郎は、歩くこともできないほどの手傷を肩先に受けてしまった。そこで新三郎は、兄に肩を貸し、引き揚げた」
とある。

 八幡原の激戦が終わり、武田軍が甲府に引き揚げるとき、信玄は、渡河しようとした上杉軍を阻止した市村の舟頭らに、功績として200貫文の地をあてがった。また、元亀元年(1570)信玄は、市村の地を栗田鶴寿にあてがった(「武田信玄宛行状」・善光寺蔵)。

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