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史跡紹介

可候峠

カテゴリー:上杉軍関連 | ◇アクセス

 読みは「そろべくとうげ」。上杉謙信が永禄4年(1561)の川中島の戦いで、飯山(飯山市)からこの峠を越えて妻女山(さいじょざん)に布陣したとされる。可候峠の名は「可候(そうろうべし)」の草書体のように道が曲がりくねっているところからついたという。


赤点線=可候峠(松代温泉側)、およそのルート

 尼厳(あまかざり)山の鞍部(あんぶ/山の尾根のくぼんだ所)をなした位置にあり、千曲川が山際まで流れていたころに、加賀井村と大室村を結んでいた。伝承によると、可候峠から尼厳山麓を南に横切り、関屋村・地蔵峠を経て上田に通じる(現・県道松代真田線にあたる)古道があったという。

 弘治2年(1556)、真田幸隆による尼厳城攻略にもこの道が利用され、加賀井側には、尼厳城に居城していた東条氏の一族が嘆きながら駈け下りたと伝えられる「泣坂(なきさか)」という地名が残る。また、「寺前」「寺下」という地名は、峠の道沿いに建ち、甲越戦争で焼失した孝養寺という寺の名残であるという。

 江戸時代、松代城下の繁栄とともに、西側に鳥打峠(とりうちとうげ)が開通して可候峠は廃れ、いまはただの山道となっている。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 可候峠は尼飾山(尼巌山)とその支脈が北西に張り出した寺尾山との鞍部(あんぶ/山の尾根のくぼんだ所)にある東条村と大室村を結ぶ峠である。この峠道は飯山方面から松代、地蔵峠を経て上田、佐久、上州に通じる道として利用された。

 上杉軍が川中島に出陣する道筋には、北国道、北国脇道、飯山道が使われた。川中島の戦いの第4回戦にあたる永禄4年(1561)の八幡原の激戦は、北国脇道が使われた。信玄が約束を破って、謙信の上洛中に割ヶ嶽城(上水内郡信濃町)を攻略した。これを知った謙信は、8月14日、1万3千の将兵を引き連れて川中島へと出陣したのである。

 直江氏率いる兵糧運送の小荷駄隊2千は、牟礼宿(同郡飯綱町)で謙信本隊と分かれ、北国街道を善光寺へと向かった。謙信は1万1千の将兵を引き連れ、川中島妻女山へと脇道を進んだ。牟礼から神代(かじろ/長野市豊野)、長沼、布野の渡し(同市朝日)で千曲川を渡り、福島宿(須坂市福島)、川田宿(長野市若穂)で飯山道に出た。そして、大室(同市松代町)から可候峠を越え、加賀井(同市松代町東条)、鋤崎の出崎(同)から、鰐沢、小鮒沢(同町西条)を過ぎて、象山の鞍部の多田越えをし、清野へ人数を引き入れ、妻女山に本陣を構えた(『甲越信戦録』)。この道筋は最後まで上杉に属して武田と戦った高梨頼親の旧所領地である。

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