史跡ガイド

史跡紹介

保科氏館跡

カテゴリー:武田軍関連 城・館 神社・寺 | ◇アクセス


総門から本堂を望む


本堂

 場所は長野市若穂保科。「槍弾正」と称された高遠城主・保科弾正忠正俊(ほしな だんじょうのじょう※ まさとし)は、武田方の信濃先方衆騎馬120騎持ちの侍大将を務め、武田家滅亡後は徳川家康に仕えた。その保科氏発祥の地にある円覚山広徳寺は、保科弾正忠正利を開基とし、延徳元年(1489)に開創された曹洞宗の寺院。現在の広徳寺のあたりに保科氏の館があったといわれ、永正10年(1513)村上氏との戦いで消失。焼け残った館の裏門が現在の寺の総門となっているという。
※弾正忠=だんじょうのちゅう、とも言われる。


弁財天御堂

 弁才堂に祀られる八臂弁才天(はっぴべんざいてん)は、武田信玄の守護神と伝えられ、川中島の戦いの際には領土安穏を祈願し、広徳寺に安置したと伝わる。弁才天は、音楽や智恵、財福の神で、七福神の一人としても信仰される。八臂像は八つの手にそれぞれの明徳を備えている。広徳寺の裏山には、霜台(そうたい)城跡があり、かつての城下を静かに見おろしている。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 永正10年(1513)3月、村上義清の父頼衡[よりひら]が、高井郡に侵攻し、高梨、井上、須田の諸氏を降して、高井郡を支配下においた。この戦乱で須釜の保科氏館は、裏門を残して焼失した。このとき保科高下にあった広徳寺も兵火で焼失した。天文2年(1533)保科氏の館跡に広徳寺が再建された。この寺の総門は、保科氏館の裏門という。

 村上氏に降った保科正則の弟左近将監[さこんのしょうげん]は、天文22年(1553)村上義清に属し、旗本大将として上田原に出陣した。永禄のはじめころ、武田に従ったあと、織田の家臣森氏、上杉氏に属し、保科を領した。この左近将監館跡は今は宅地になっているが、東西40m・南北4mで、若穂保科 町滝崎にあったという(『長野県町村誌』)。

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