史跡ガイド

史跡紹介

十王堂

カテゴリー:神社・寺 | ◇アクセス

日本の戦国史のなかでも大激戦のひとつに数えられる永禄4年(1561)の川中島の戦いは、甲越両軍あわせて戦死者8千人余と伝えられ、将兵のみならず、数多くの里人も戦火に見舞われ犠牲となった。

十王堂縁起によると、大合戦の後、主戦場となったこの地に、武田・上杉両軍の戦死者と、犠牲になった村人の亡骸や付近一帯に散在したものを地元住民が一カ所に集め、この地に墓標を建て霊を弔った。のち塚の跡地にお堂を建て、本尊阿弥陀如来と十王尊十体を安置したという。

時代を経るとともに水害などで堂宇が傷んできたため、昭和54年(1979)に東福寺の人々によって再建されている。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 永禄4年(1561)の川中島激戦場は、川中島南東部である。戦死者や犠牲者の菩提のために、住民が堂宇を建立したと伝えるのは、東福寺の十王堂だけである。戦死者や犠牲者を弔うために墓塚を築き、十王堂を建立した心情は、東福寺地区を巻き込んだ合戦や犀川・千曲川による災害、用水堰の流末という厳しい生活条件を抜きにしては考えられない。

 木曾義仲と平家方の城資茂[じょうのすけもち]が戦った養和1年(1181)の横田河原の戦いや信濃新守護小笠原長秀と大文字一揆党が戦った応永7年(1400)の大塔[おおとう]合戦は、この村をも戦火に巻き込んだ。東福寺にあった大寺は、横田河原の戦いで兵火のため焼亡した。東区の観音堂の本尊十一面観音菩薩像は、この東福寺の本尊という。「東福寺」の村名や「御堂沖」の地籍名は、この寺名からついたという(『東福寺村史』)。また、東福寺の南宮遺跡で10住居跡が発掘調査された。このなかに焼失した住居跡もみられ、なんらかの戦火に巻き込まれたのではなかろうかと調査報告書は綴っている。

 和歌山県立博物館の「絹本川中島合戦図屏風」の武田信玄と上杉謙信の一騎討ちは、御幣川(おんべがわ)の中で、乗馬の両者が太刀と太刀で一騎討ちしている。この元になった『紀州本』には、犀川を挟んで武田信玄は小森・東福寺、上杉謙信は原の町に本陣を構え対陣したとある。また、犀川乱流図に犀口から小森、東福寺にかけて犀川に匹敵する原瀬川(上中堰)が描かれている。小森区の「川越」「古犀川」の地籍名は、その川跡からついたという。弘化4年(1847)の犀川大洪水は、原瀬川跡を一大濁流となって東福寺地区を襲った。

 明治7年(1874)の東福寺は、村高2600余石、このうち、31%にあたる808石余が、川欠で年貢免除地になっている。この数字は近隣の村々に比べて際立っている。洪水の後には、きまって疫病が流行し犠牲者も多くでた。
 度重なる戦乱と、犀川・千曲川による洪水である。助け合い支え合わないと暮らしていけなかった背景が、十王堂を建立させたといえよう。「支え合い、助け合う」ことを川中島地方では、「結っこ」といっている。「結っこ」の心は、思いやりの心である。

アクセス
長野ICより車約15分