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史跡紹介

上田原古戦場

カテゴリー:武田軍関連 戦場跡 | ◇アクセス

諏訪・佐久地方をほぼ平定し、北信濃への進出をめざす武田晴信(信玄)は、天文17年(1548)2月、諏訪から大軍を率いて大門峠を越え小県郡に攻め込んだ。東信濃の勇将・村上義清は葛尾城(かつらおじょう・坂城町)を出陣し、両軍は千曲川に接する上田原で激突した。

「上田原の戦い」と呼ばれるこの合戦は、村上、武田両軍合わせて戦死者は約4千人あるいは6千人ともいわれ、武田軍の板垣信方(いたがきのぶかた)、甘利虎泰(あまりとらやす)ら重臣が討ち死に、晴信も傷を負った。

井上靖の小説『風林火山』では、武田軍の勝利として描かれているが、甲斐の記録『妙法寺記』に「甲州人数打劣テ」と記されたように、史実では地の利を得た村上軍によって無敵といわれた武田軍が初めて大敗を喫した負け戦であった。

激戦となった一帯は、県営球場を中心に古戦場公園が整備され、近隣には板垣信方の墓や村上方重臣らの墓が建っている。また、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ原・味方原など布陣にまつわる地名が今も残されている。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

天文17年(1548)の上田原の戦い、同19年の砥石城(といしじょう)攻略で、武田晴信はともに敗北した。

『妙法寺記(みょうほうじき)』に「天文17年2月14日、信州村上殿近くの塩田原(上田原)という所で晴信様と村上殿合戦され、大乱戦となって甲州軍は大敗した。そして、板垣駿河守信形(いたがきするがのかみのぶかた)殿・甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)殿・才間河内守殿(ざいまかわちのかみ)・初鹿野左衛門尉(はじかのさえもんのじょう)殿など有力な方々が討死になられ、味方は戦意を失った。国人の嘆きは極度に達したが、しかし戦は止むことはなかった。晴信様も手傷を負われた」と述べている。『甲陽軍鑑』では上田原の戦いは、「8月24日辰の刻(午前8時ごろ)に甲州の攻撃から始まった」とある。

上田原の戦いは『妙法寺記』にあるように武田軍に大きな痛手を与えた。この戦いで勝利した村上義清は、北佐久・小県地方をほとんど支配下においた。上田原で勝利した義清は、4月5日、小笠原長時とともに諏訪下社を攻め、25日には村上兵が武田軍の根拠地、内山城に放火している。この上田原の戦い、砥石の戦い以後、晴信は村上義清との直戦を避け、村上氏の内部分裂に重点をおく戦略へと転換。それにより天文22年(1553)、信玄は村上義清の在城していた塩田城の攻撃をせずに、4月5日に村上氏の本城、葛尾城を攻略した。こうした信玄の対村上氏の戦術転換には、山本勘助が大きくかかわっていた。

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