史跡ガイド

史跡紹介

無名戦士の墓

カテゴリー:武田軍関連 供養塔・墓 | ◇アクセス

天文17年(1548)、武田軍と村上軍の合戦が繰り広げられた上田原一帯には、戦で命を落とした犠牲者を弔ういくつもの墓が建っていた。上田原古戦場の石碑が建つ石久摩神社の裏手には、名も知れなくなったこれらの墓が集められ、のどかな風景の中に、戦国の世の悲壮な歴史を今に伝えている。周辺には同じような墓が数カ所にあり、県営球場隣の観音寺にも戦死者は供養されているという。


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岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

寺の墓地の一隅に小振りな墓に混じって、名のある故人の墓とおもわれる古い立派な墓碑も無縁仏として墓地の一隅に処理されているのをみる。長年音信不通で、供養主の所在も全く不明になってしまった墓という。

上田原の村上、武田両軍の戦いは、天文17年、同22年両度行われ、その都度多くの将兵が戦死した。無名戦士の墓は、故人と縁ある者によって野辺に建てられ、供養されていたものであろう。

天文22年(1553)村上氏は没落し、武田家も天正10年(1582)滅亡した。そして、上田原で討死した縁の人々も主家の没落、滅亡で四散した。寺の墓地内にある墓ですら無縁仏と化す。ましてや野辺にある無名戦士の墓が、無縁仏と化するのは当然というべきであろうか…。

古い五輪塔の前に額づくごとに、小学校4年生のとき教えられた「川中島」の歌詞、「川の瀬音は人馬の声か/乱れるススキは旗差し物か/昔の英雄今はたあらず/記念(かたみ)は野辺に苔むす墓石」(文部省唱歌教科書)が脳裏をかすめる。

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