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雨宮刑部正利の墓

カテゴリー:武田軍関連 供養塔・墓 | ◇アクセス

読みはあめみや(あまみや)ぎょうぶの墓。雨宮刑部は、上田原の戦いで討ち死にした村上方の武将で、雨宮渡(あめのみやのわたし)にほど近い唐崎城の城主だった。雨宮摂津守の子、または清野信秀の子ともいわれている。村上義清が信濃から逃れた後は、雨宮氏は武田に降り信玄の家臣となった。

雨宮刑部の墓は県営球場隣の観音寺近くにあり、また、義清の身代わりになったという屋代源吾や小島権兵衛といった武将たちの墓も近隣の田畑の一画にたたずんでいる。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

応永7年(1401)信濃新守護、小笠原長秀(おがさわら・ながひで)と大文字一揆党(だいもんじいっきとう・信濃国人武士団)が戦った大塔合戦(おうとうがっせん)で、一揆党の総帥として勝利に導いた村上満信(むらかみ・みつのぶ)以後、村上氏の勢力は隆盛となり、所領は更級(さらしな)・埴科(はにしな)両郡の南部から更埴北東部へと拡張した。

戦国期には、村上氏は北信の覇者となった。村上氏は、新たな所領地を分知して一族に与え、それぞれ支族は、在地名を姓とした。北埴では小島氏(児島)・屋代氏・倉科氏・生仁(いけに)氏・雨宮氏(千曲市)、清野氏・西条氏・東条氏などがいる。

上田原の戦いでは、これら支族は、宗家村上義清の旗下に参じ、武田軍を苦境に追い込んだ。雨宮刑部正利(正教・まさのり)は天文17年上田原に出陣し、この地で討死した。また、実弟景信(かげのぶ)は、天文22年(1553)、葛尾落城の後は、武田晴信に降(くだ)り、足軽70騎の将となった。天正10年(1582)3月、武田勝頼が天目山の麓、田野で自決したとき殉死した家臣に雨宮織部正良晴(あまみやおりべのしょうよしはる)がいる。良晴の遠祖は信州村上氏という。

屋代源吾基綱(やしろげんごもとつな)は、屋代(一重山・ひとえやま)城主、政国の長子である。上田原の戦いで、義清が窮地に陥ったとき、身代わりとなって上田原下之条で討死した。叔父の額楽寺光氏(がくがんじみつうじ・政国実弟)は、砥石城攻防戦で村上軍の先鋒として奮戦し、武田軍を破った(砥石崩れ)。信玄も一目おいた武将である。光氏は天文22年8月、義清を説得して越後に逃れさせ、村上氏再興を期して武田に降った。翌年7月23日、義清との密通が露見し、海津城で誅殺された。

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