史跡ガイド

史跡紹介

荒砥城(あらとじょう)跡〈城山史跡公園〉

カテゴリー:武田軍関連 上杉軍関連 城・館 | ◇アクセス

村上氏の支族である山田氏によって築かれた山城で、山田城、砥沢城とも呼ばれる。川中島合戦の頃には武田軍と上杉軍による争奪戦が繰り広げられた。

天正10年(1582)、武田氏滅亡後、上杉景勝の川中島統治時代には屋代秀正が海津城副将となり、荒砥城は清野・寺尾・西条・大室・保科・綱島・綿内の各氏による城番管理がなされた。翌天正11年、屋代秀正は徳川家康と通じて荒砥城に籠城、後に上杉諸将に攻められ落城したと伝えられている。


荒砥城


荒砥城から葛尾城跡を望む

城山史跡公園には、中世の史実に基づいて館や見張り台、兵舎、門などが復元され、戦国時代の山城の姿を現代によみがらせている。付設の映像・展示室ではビデオやパネル資料で当時の様子などを解説。見晴らしも良く、眼下に戸倉上山田温泉の街並みと千曲川の流れ、対岸には村上義清の居城・葛尾城跡が迫り、遠く北信濃の山々や北アルプスの雄大な景色が楽しめる。春は桜の名所として知られるが、大河ドラマ『風林火山』のロケ地ともなり話題を呼んでいる。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

「荒砥城」は上山田町(現千曲市)の「ふるさと創生事業」により、平成7年(1995)城山史跡公園として整備され、この地にあった山田氏、その後の屋代氏の山城を中世の史実に基づいて復元した戦国期の山城である。城山公園の頂上に本郭、その下手の段には二の郭・櫓・兵舎が復元されている。城跡公園は車の便もよく、入口には駐車場もある。戦国時代の山城、砦を推測する上で参考になる。

荒砥城は、冠着山(かむりきやま)支脈の城山(標高895m)山頂を本郭とする城で、山田城・砥沢城とも呼ぶ。城は村上支族の山田氏の居城で、荒砥城は南方に相対する狐落城(こらくじょう)ともに、葛尾城(かつらおじょう)の重要な詰め城である。

天文22年(1553)3月、児島(小島)兵庫三兄弟が守る狐落城は、村上氏側内部分裂をはかった晴信の戦略によって落城した。引き続いて武田軍は荒砥城を猛攻した。城将山田国政(やまだ・くにまさ)は奮戦し討死した。武田晴信は天文19年に砥石城を攻撃したが大敗した。このときの砥石城代は山田国政という。村上氏本城の葛尾は、4月5日、同じく村上氏側の内部分裂によって落城した。

天文22年8月、村上義清救援の上杉軍が荒砥城を奪還した。しかし、上杉軍が越後に引き揚げると、屋代氏・室賀(むろが)氏など村上義清に離反した武田勢の猛攻を受け、荒砥城・葛尾城は武田の手に再び落ち、村上義清は上杉景虎を頼って越後に逃れた。荒砥城は戦功として屋代秀正(やしろ・ひでまさ)に与えられた。天正10年(1582)、武田家滅亡後、川中島は上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)領となり、荒砥城は徳川家康の狐落城に対する上杉方の備えの城として重視された。

アクセス
しなの鉄道戸倉駅より車で10分