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史跡紹介

村上義清居館跡(満泉寺)

カテゴリー:城・館 神社・寺 | ◇アクセス

 埴科郡坂城町木下にある。
東信濃の勇将と謳われた村上義清の居館は、葛尾[かつらお]城の南山麓、満泉寺[まんせんじ]とその周辺一帯であった。満泉寺は村上氏代々の菩提寺で、寺伝によると応和3年(963)の創建。当初は修善寺という天台宗の寺であったが、永正元年(1504)に曹洞宗に改宗、満泉寺と改めた。


満泉寺

 天文22年(1553)、武田軍に攻められた村上義清は、居城の葛尾城と居館を兵火で失い、ついには上杉謙信を頼り越後へと逃れた。天正10年(1582)、武田氏滅亡後、上杉景勝が北信濃を領有すると、義清の子・景国(国清)は海津城将に着任。信濃の地に返り咲いた景国は、居館跡に満泉寺を再建し、祖先の菩提を弔った。寺には村上氏系図その他古記録が保存されている。本尊の石造釈迦如来坐像は県宝指定。

岡澤先生の史跡解説

プロフィール 岡澤先生のプロフィール

 村上氏の館跡は、満泉寺の寺城とその周辺を含めた南北160m・東西160mほどの地域。寺地境は四方に狭い水路がめぐり、水路の内側には小規模な土塁跡が残っている。館跡の西北隅に厩屋(うまや)と称する地がある。館跡西中ほどの土橋を御堀橋(おほりばし)といい、館跡の東方を栗田屋敷、館跡南側には下長屋(しもながや)と称する地がある。

 応永7年(1400)信濃新守護小笠原長時(長秀)[おがさわら・ながとき(ながひで)]と大文字一揆党(信濃国人武士団)が戦った大塔(おおとう)合戦で、一揆党の総帥として勝利に導いた村上満信[むらかみ・みつのぶ]以後、村上氏の勢力は隆盛となった。村上氏の所領は更級(さらしな)・埴科(はにしな)両郡の南部から更埴(こうしょく)北東部、さらに犀川を越え、水内(みのち)郡へと拡張した。新たに所領地を分地して一族に与え、分地された支族は在地名を姓とした。中・北埴では、山田氏・小島氏・屋代氏・倉科氏・生仁[なまに]氏・雨宮[あまみや・あめみや]氏(千曲市)、清野氏・西条氏・東条氏(長野市)などがいた。更級北東部や水内中部にかけては、長峰氏・広田氏・藤牧氏・今里氏・栗田氏などがいた。

 村上義清はこれらの支族を背景として東北信濃の覇者としての地位を確立した。義清は、天文10年(1541)、武田信虎、諏訪頼重と同盟し、真田幸隆の祖父(父とも伝わる)、海野棟綱[うんのむねつな]を攻めて上州(群馬県)に敗走させ、小県(ちいさがた)郡を手中におさめた。また、同17年(1548)の上田原の戦い、同19年(1550)の砥石合戦では、これら支族は宗家義清の旗下に参じ、武田軍に勝利している。しかし、同20年(1551)5月、武田信玄の家臣となった真田幸隆に砥石城を奪還されたことによって、没落への道を歩みはじめるのである。

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